whitecanvas’s blog (note to self)

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PRの有無の問題は嘘の善悪の問題と同じだと思う

ヨッピーさんにまつわる記事をいくつか読んできたけど、一読者として考えたときに個人的には「どう裏切られたかが問題」だと思った。

ヨッピーさんの記事を読むと、確かにタイトルにPRの言葉はないけど、コンテンツ自体が面白く、最後に~のPRですって書かれていても個人的には不快ではなかった。むしろ読後の満足感と一緒にPR対象についても興味がわいてきたりして、こう思わせるヨッピーさんはすごいなと思っていた。ちなみに、これは形式的には裏切っているかもしれないが、気分は害されるどころか満足感があり、「いい意味で」裏切られた感じだ。

 

一方、大多数の広告は興味をそそるタイトルに思わずクリックしてしまって、読んでみると面白味もなければ、これを買えと押しつけがましくアピールしてくる。大抵はもう開いた瞬間に「ああ・・・釣られてしまった。」という感じになり、時間を無駄にされた感があり、こっちは「悪い意味で」裏切られた気持ちになる。

 

ところで、fromdusktildawnさんが以下の記事の最後の方でタイトルへのPR文字の挿入の是非について、形式(≒法律)の観点から触れていらっしゃるが、個人的には法律で定めるレベルまで行くと生きにくい世界になるよなって思っている。

 

fromdusktildawn.hatenablog.com

 

PRの有無を問題かどうか考える際の重要な観点の一つに、嘘の善悪があると思っている。
PRの有無の問題は広い意味で嘘の善悪について話しているかと思うが、自分は嘘の中でも「白い嘘」は受け手次第でOKだと思っている。大切な人を守るためや喜ばせるために人々は「白い嘘」をつくけど、これが法律で禁止されたら本当に世の中つまらなくなる。

結局この問題は実際に読んだ読者がどう感じるかが問題で、読んだ人が不快に感じないのなら別にいいと思う。
また、読んでない人の中には「自分のタイムラインに記事が流れてくる際にそれがPRか分かりやすくしてほしい(快適なインターネット生活への要望)」と考える人がいると思うが、それについては知恵を絞る必要があるというのが落としどころだと思う。


現状自分たちが見ている記事は基本お金を払っていないので、提供側に対する強制力(責任)は生じず、かといってPRの有無について、それを楽しむ人もいれば、楽しまない人もいるので両者それぞれに対して調整が発生する何かがないとみんなハッピーになれないと考えている。

 

知恵が必要だ。